「撮りたいものはありません」Taken by a six.
500pxという海外サイトに載せたら
「Super macro」「very nice」などのコメントを頂きました。
きょうの写真教室の中でのこと。
9才は特定の撮りたいものがなく、
いろいろなものが撮りたいと言っていたので、
改めて「なにか撮りたいもの見つかった?」と聞くと
うーん、と考えている顔。
「それじゃあ、いままでの撮影でおもしろかったのは」と聞くと
「あの、海に行ったときがよかったです、波が来たりするのが」と。
6才は普段から撮りたいものだらけ。
「ぼくね、ホワイトタイガーも撮りたいし、あとなんかあの鳥がね撮りたいんだよね、あと、あと…」と止まりません。
クルマが撮りたいです、と最初に言っていた8才に、
今はどうなのかなと思って聞いてみると
「撮りたいものはありません」ときっぱりと言われ、ショックを受けました。
(野球を習っているからかはっきりとモノを言い切る傾向が8才にはありますが)
「じゃあ、どうして習っているの?」と聞くと
「写真がうまくなって、いろいろなものが撮れるようになりたいからです」と答えます。(8才は本当にこの通り書き言葉のように喋ります)
「いろいろなものって?」
「あ、動物とか撮りたいです」
「そうか、動物か、サファリとかいつか行ってみたいね(PCで画像を引っ張ってくる)」と撮りたいものが一応あるようで少し胸を撫で下ろしました。
しかし、8才の言葉は僕に突き刺さりました。
ぼくは、技術的なことを重視して教えていますが、こどもたちの感性を軽視や無視しているつもりはありません。技術がある程度確立し、カメラがコントロールできるようになったときに立ち上る感性に期待しているからです。
他の分野を見渡してみると、芸術性というのは技術獲得のあとに要求するものだというように思えたからです。また極まった技術そのものが「芸術的だ」と賞賛されるケースも多く見られます。
そういう分野を見てから写真を振り返ってみると、まだカメラをコントロールできていないこどもの写真を見て「豊かな感性だ」「芸術的だ」と賞賛する大人たちに違和感を覚えるになりました。
これはピアノでいうと、鍵盤をめちゃくちゃに叩いて奏でるメロディーを「独創的だ」「大人はこのような演奏はしないよね」と言っていることに等しいのです。
もしくは大人がそうやってこどものやっていることを見ることは微笑ましいことかもしれません。しかし、それでこどもは伸びて行けるのだろうか、と僕は考えました。
そして今もそのことに大して考え続けています。
しかし「撮りたいものがない」という言葉が出てくるというのは、指導者として大きな欠陥、なにか勘違いしているのではないか、と思いました。一番身近な6才が「あれも撮りたいこれも撮りたい」というので油断していたのかもしれません。
こどもが首を傾げた場合、だいたい大人側にムリがある。
なにか飛ばしていないか、なにか忘れちゃいないか。
焦っている自分を感じつつも、ゆっくりでいいと開き直ることなく、進んで行けたらなと思います。ほんと、教えるということは教わるということだなぁと痛感させられます。